荒七酒店(茨城県)
日本民藝館(東京都)
旧青山沈でん池(神奈川県)
ビアレストラン「クラストン」(岩手県)
酒船石遺跡(奈良県)
満濃池樋門(香川県)
大猷院廟奥の院(栃木県)
大阪府立中之島図書館(大阪府)
日本銀行本館(「旧館本館、東京都)
蜂須賀家万年山墓域(徳島県)
霊台橋(熊本県)
八幡神社石鳥居ほか(山形県)
大谷磨崖仏(栃木県)
仙台東照宮(宮城県)
阿弥陀三尊石仏ほか(京都府)
仏足石、仏足跡歌碑(奈良県)
保月六面石幢(岡山県)
日生京都三条ビル旧棟(京都府)
旧二本松藩戒石銘碑(福島県)
山王廃寺塔心柱根巻石(群馬県)
岩戸寺宝塔(大分県)
日本銀行本店(旧館本館、東京都中央区)〜モデルはベルギー中央銀行〜

東京の銀座に対して「金座」という地名があるのをご存知だろうか。銀座・金座という名は元は江戸幕府の造幣所がそのまま地名になったもので、当時の銀座では一分銀などの四角い銀貨、金座では大判・小判などの金貨が造られ、付近は両替商が軒を連ねていた。金座は常盤橋の東側、現在の日本橋本石町あたりを指し、今回紹介する日本銀行本店は1896年(明治29年)に開業時の永代橋ほとりからここに移転してきた。この本店の旧館本館が昭和49年に国の重要文化財に指定されている。

―本店全体は四つの時代の建物に…

設計者は明治建築界の巨匠・辰野金吾。欧米各国の著名な銀行を約14カ月掛けて視察、ベルギーの中央銀行を手本とし、英国流パラディオ様式を加味してデザインした。現在の建物は増改築によって拡張されたもので、旧館本館のほか、長野宇平治の設計で昭和初期に増築された旧館2〜3号館(※1号館は新館増築の際に解体)、昭和48年完成の新館、昭和59年完成の分館(貨幣博物館)の4つの時代の建物からできている。旧館本館はM7.9の関東大震災(大正12年)や手榴弾が投げ込まれた5・15 事件(昭和7年)、あるいはB29爆撃機による東京大空襲(同20年)など数々の人災・天災・政変に巻き込まれたが、幸い最小限の被害で済み、今もほぼ原型を保っている。

江戸城の石垣が安山岩なのに対し大阪城が花崗岩という差とも似ているが、当時、関東には観音崎砲台(明治12年)や二重橋(同20年)を除いて花崗岩の建築が全くなかった。瀬戸内海に石材産地を控えた上方には既に(前回の大阪府立中之島図書館など)石造建築があったが、帝都・東京ではこれが初の本格的な本石建築となった。当初は総3階石造りの計画だったが、着工の翌年(明治24年)、8.0の濃尾地震が発生、その被害状況を目の当たりにして耐震性について再検討した結果、建物上部を軽量化すべく2階・3階は外観に薄い石材を張った煉瓦造りとなった。1階の全外装と2階のピラスター(付け柱)が北木石、二階壁面には神奈川湯河原町鍛冶屋産の白丁場石が張られている。

―工事の遅れは石工が原因?

建設時、関東の石工は柔らかい安山岩にしか慣れておらず、石材加工のため関西の石工が呼び寄せられた。それでも辰野の要求する彫刻技術はそれ以上のレベルだったという。当時のこんなエピソードがある。ある時、石工事が予定より1年数カ月遅れていたので、その原因を調べてみると、石工事の下請けをしていた親方4人の仲が悪いことが主因だった。
 

そこで当時、事務部主任だった高橋是清(後の第7代日銀総裁)は、四角い建物の一辺を4人に割り振り、期日に遅れた者から1日500円の罰金、それより早い場合は1日500円の報奨金を支給することを提案、時の総裁川田小一郎も「金はそういう風に使わねば」と快く了承したという。それでも途中、日清戦争による資材・職工不足などで計画は大幅に遅れたが、石工たちは2万1105個の石材を図面どおり何とか加工し積み上げ完成した。

デザインについて更に解説すると、ベルギー中央銀行との共通点は以下のとおり。ひとつは襲撃に備えた防御性。建物の周囲に空濠を設け、正面の壁には外に向けて(銃眼らしい)細長い小窓が幾つもある。もうひとつは建物の配置。左右にペディメント(破風)と列柱からなる張り出しを置いて強調し、中央をシンプルにまとめてある。本館内部及び営業場などは事前予約すれば無料で見学できるので、希望者は是非見てほしい(情報サービス局広報課 03‐3277‐2815)。明治中期の石造建築の傑作とそこに刻まれた歴史の痕跡が見えるはずだ。

それにしてもあまりにも外観が汚なすぎる。これが歴史の重みといえばそれまでだが…。そこで提案―社会奉仕の一環として石材業者が一致団結し建物の補修・清掃を申し出るというのはどうだろう。やはり無理だろうか。いや…。 

日本銀行本店=東京都中央区日本橋本石町2−1−1